1-1. 知財・無形資産ガバナンスとは
企業が継続的に成長し、競争優位を確立するうえで重要となるのは、有形資産のみならず、知的財産(特許、商標、意匠、著作権など)や無形資産(ブランド、ノウハウ、組織能力、データ、ソフトウェアなど)をいかに活用できるか、という点です。ハードウェアや工場設備などの有形資産はもちろん価値がある一方で、サービス化やデジタル化が進む昨今のビジネス環境では、むしろ無形資産が付加価値の源泉となるケースが増えています。 日本政府が指針として示している「知財・無形資産ガバナンスガイドラインVer 2.0」では、企業の知的財産や無形資産への投資を、企業価値向上の視点から「見える化」し、ステークホルダーに説明できるような枠組みが求められています。ここでいう“ガバナンス”とは、単に特許や商標を管理するだけではなく、企業の経営戦略と知財戦略を連動させ、経営トップや投資家、従業員、社会に対して透明性のあるコミュニケーションを行う体制を指します。 「知財・無形資産ガバナンス」という言葉は、まだ一般的な経営用語ほど浸透していないかもしれません。しかし、これは今後ますます重要度が高まる概念です。なぜなら、多くの企業にとって、ブランド価値や特許ポートフォリオ、ソフトウェアやデータ解析のノウハウなどが、競合他社との差別化要因になり得るからです。言い換えれば、“どんな知財・無形資産を持っているか”が企業の強さを左右する時代になってきたのです。 ただし、知的財産やブランド力などの無形資産は、その価値が財務諸表に直接的に載りにくい特徴があります。例えば、設備投資であれば建物や機械装置などの形のある資産として計上され、投資額や減価償却費がはっきり見えます。しかし、知財・無形資産の場合、「なぜこの特許を取得する意義があるのか」「ブランド投資が売上や利益にどのように貢献しているのか」が、外部のみならず社内でも理解されにくい場面が少なくありません。 そこで注目されるのが、企業の重要な無形資産を“バランスシートに見えない資産”としてどう捉え、どのように価値を測定していくかという考え方です。知財・無形資産ガバナンスは、無形資産を経営の中心に据えつつ、どのように企業価値を高めていくかをステークホルダーに分かりやすく示す枠組みとして、とりわけ大企業を中心に導入が進んでいます。 1-2. ROICの基礎――なぜ重視されるか では、こうした無形資産への投資や活用状況を、具体的にどのような指標で説明するのか。本書で軸として取り上げるのが、ROIC(Return on Invested Capital:投下資本利益率)という指標です。日本語で「投下資本に対する利益率」と訳されることもありますが、もう少し噛み砕いていうと、「企業が事業活動に投じた資金を、どれだけ効率よく利益に転換できているか」を示すものです。 一般的な定義としては、 ROIC=NOPAT÷Invested Capital で表されます。ここで、NOPAT(Net Operating Profit After Tax)は税引後営業利益を指し、実際には営業利益から税金を引いて計算します。一方、Invested Capital(投下資本)は、有利子負債と株主資本(自己資本)など、事業運営のために企業が投じている資本の総額を意味します。 企業が自己資本や借入金などを利用して事業を行う際、その資本を投入しながらどの程度の営業利益を生み出せたのか、という観点で測るため、資本効率を示す指標として近年注目度が高いのです。たとえばROICが10%であれば、投下資本に対して10%相当のNOPATを生み出していることになります。これは投資家や債権者にとっても重要な指標です。なぜなら、もし自分が企業にお金を出資したり、企業に融資を行ったりする立場だとすると、その資本がどれだけ効率的に回っているかを知りたいからです。 日本企業では、これまで売上高や営業利益率(売上に対する利益率)が重視される傾向がありました。もちろん売上高や利益率も重要ですが、近年のグローバル競争の中で投資家の視点を踏まえると、“企業がどれだけ効率的に資本を使い、収益を生み出しているか”がいっそう問われるようになってきました。そこでROICやROE(自己資本利益率)といった指標が着目されるようになっています。 特にROICは、事業活動に直接関連する営業利益ベースで見られることが多く、事業部単位やプロジェクト単位でも応用しやすい指標です。M&Aや新規事業の採算評価にも役立ち、「投入した資金を、いつ、どのくらいの割合で回収できるのか」をシミュレーションする際に使われます。つまり、無形資産への投資が企業活動に与えるインパクトを、経営層や投資家に向けて説明するうえでも、ROICは非常に分かりやすい“言語”といえるのです。 1-3. 知財活動とROICを結びつける意義 では、実際に知財活動をROICの観点で捉えると、どのようなメリットがあるのでしょうか。本書では、大きく以下の3点が挙げられると考えます。
1-4. As IsとTo Be――現時点のROICと未来のROIC ここまでROICの重要性を述べてきましたが、現在のROICが高いからといって、未来も高いとは限りませんし、その逆もまた然りです。なぜなら、ROICはあくまで“今時点の資本効率”を示すものだからです。言い換えれば、“現在のROIC”には過去に行われた知財投資の成果が織り込まれている可能性が高い一方、“今から行う知財投資”の成果がすぐにこの指標に反映されるわけではないということでもあります。
また、投資家やアナリスト向けにIR資料や決算説明会で知財活動をアピールする際にも、「現在のROIC」と「将来を見据えた修正ROIC(To Beの姿)」を対比させる形で示すことで、企業が描いている成長シナリオを分かりやすく伝えられます。要は、知財活動がすぐに数字で見えにくいからといって軽視せず、“将来のROIC”を高める源泉であると位置づけ、理解を得ることが重要なのです。 〈まとめとアクション〉
以上が、第1章「知財・無形資産ガバナンスとROIC――基本概念のおさらい」となります。 ここまでの内容を通じて、知財・無形資産ガバナンスの概要や、ROICがなぜ重要視されるのか、そして知財投資がどのようにROICに反映されるのかについてイメージを掴んでいただけたかと思います。次章からは、より具体的に知財活動とROICの関係を可視化するフレームワークや、KPI設定のポイントなどを詳しく解説していきましょう。
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はじめに
企業における知的財産(特許、商標、意匠、著作権など)や無形資産(ブランド、ノウハウ、組織能力、データ、ソフトウェアなど)の重要性は、近年さらに高まっています。技術の進歩、サービス化やデジタル化の進展、グローバル競争の激化などに伴い、企業の成長と競争優位を確立するうえで、知財・無形資産をいかにマネジメントし、活用していくかが大きな鍵となっているのです。 本書は、特に知財部門の中堅担当者や、知財戦略の企画・推進を担う方々を想定読者とし、以下の課題解決を目的としています。
本書では、ROICの基本的な意義や計算方法を改めて説明し、実務で知財活動との紐づけを行うために必要な考え方・具体例を多数取り上げます。さらに、「ROIC逆ツリー」と呼ばれるフレームワークを活用して、知財部門がどのように企業価値向上に貢献しているのかを可視化する手法を解説します。また、ROICは短期視点の指標になりがちなため、修正ROICという中長期視点での補正を行い、将来の投資成果をどう評価・説明するかについても議論します。 本書を読むことで、知財担当者は「権利化の専門家」から「経営を動かす戦略パートナー」へとステップアップし、社内外からより一層の信頼を得られるようになるでしょう。ぜひ、実務のヒントとして活用していただきたいと思います。 第1章 知財・無形資産ガバナンスとROIC―基本概念のおさらい 第2章 ROIC逆ツリーとは何か―知財活動と財務指標を“つなぐ”仕組み 第3章 知財活動のKPI設定―定量評価と定性評価の両立 第4章 知財活動による収益向上策―売上高への貢献をどう示すか 第5章 知財活動によるコスト構造最適化―営業利益の向上に向けて 第6章 投下資本の効率化―研究開発投資、M&A、オープンイノベーションの視点 第7章 長期的な価値創造とROIC―タイムラグをいかに説明するか 第8章 業界別事例研究―知財活動とROICの関連性を読み解く 第9章 知財担当者のコミュニケーション戦略―経営層・投資家との対話 第10章 今後の展望とアクションプラン おわりに |
Author萬 秀憲 ArchivesCategories |